厳選された美術品を世界遺産「石見銀山」がある
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唐墨について

歴史

歴史

上古

墨の存在は、殷代後半期にまで遡ることができる。殷代後半期の甲骨文字には朱書きしたものや墨書きしたものがあり、出土品のなかに墨書きされた白色陶片がある。そのため墨状のものの存在が認められるが、それが現代の墨にあたるかどうかは不明である。また、殷から西周の青銅器文化が華やかであった時代に、青銅器の銘文として鋳出されている鐘鼎彝器(しょうていいいき)文字ももとは毛筆で書かれたものが鋳型に彫られたり、青銅器自体に刻されたとされており、あわせて墨汁にあたるものがあったはずと考えられている。

前漢時代には、老松を燃やして煙煤を採り、墨として使用する方法が定着していたとされる。はじめは漆、膠などを混ぜて団子状にした墨丸と呼ばれる軟墨であった。その後、それを乾燥させて固形墨とし、硯の上で摺るようになった。また、漢時代には、陝西省の終南山や扶風などが製墨の中心地であった。

魏、晋、南北朝

魏の墨匠として韋誕(いたん)が知られている。韋誕は、「墨史」に記載された初めての墨匠であり、太和年間(226年〜233年)に武都太守となった人である。晋時代の「筆陣図」(衛夫人作)によると、魏・晋の時代には盧山地方の松が有名であったことがわかる。しかし、製墨がどこで行われていたかは不明である。また、南北朝時代の墨家としては、劉栄や張永の名が知られている。

隋、唐

隋時代の墨の遺例は知られていない。一方、唐時代の墨は、正倉院に保存されていることは有名である。「唐書」芸文志には、玄昌皇帝のときに上谷墨(じょうこくすみ)を給したことが記録されている。上谷墨は、上谷群(易州)産の墨のことである。また、「墨経」(晁貫之)によると、唐時代には易州(河北省易県)、 潞州(山西省長治市)の松煙を使用したとされている。これらのことから唐時代には、易州および潞州が製墨の中心地であったと考えられている。

五代、宋

10世紀に入ると、唐の崩壊とともに約70年間の五代の時代となった。この間、各地で地方政権が割拠し、興亡を繰り広げた。しかし、そのなかで平和が続いた国では、地方文化が栄え、風雅な文人生活により美術工芸の華が開き、宋時代への架け橋の役目を果たす。その代表といえるのが南唐である。南唐の三代目君主である李煜により墨務官として登用された奚超・奚廷珪父子は李姓を賜り、徽墨の基礎を確立させる。徽墨は、黟山(いざん)、羅山、黄山など老松の産地に恵まれ、製墨の中心地であった歙州の墨のことである。徽墨という名は、宋の宣和3年に歙州が改称し、徽州となったことに由来する。李氏(李超・李廷珪)以外では、歙州の張氏、耿氏および朱氏、宣州の盛氏といった墨家が活躍している。また、蘇易簡の名著「文房四譜」のなかで油煙墨の製法(大麻子油から煙煤を採って製墨する。)が述べられていることから、宋時代には油煙墨が造られていたことがわかる。宋時代の墨匠には洛陽で製墨した潘谷(はんこく)、12世紀前半に黄山の松で製墨した沈珪(しんけい)および戴元衡(たいげんこう)などがいる。

元は約100年の王朝であり、その文化は宋の流れを汲んでいる。元時代の墨匠として知られているのは、潘雲谷、胡文忠、林松泉、干材中、杜清碧、衛学古、黄脩之、丘可行、丘正英、丘南傑などである。

洪武〜洪熙年代(1368年〜1425年)

明が南京を都としていた洪武年間(1368年〜1398年)に、墨匠として著名な人はいない。永楽年間(1404年〜1424年)の墨匠もはっきりとしていない。国宝の墨として、「大明宣徳年造」、「大明万暦年造」、「大清乾隆年造」などがあるが、いずれも墨匠名は判明していない。

宣徳年代(1426年〜1535年)

宣徳年代になると、「龍鳳大定」、「光素大定」、「龍香大定」などの宣徳御墨の墨銘が知られている。この年代の墨匠として、方正や邵格之が挙げられる。

嘉靖年代(1522年〜1566年)

嘉靖年代になると、万暦年代に先駆けて墨匠名がややはっきりとした形をとってくる。この時代に活躍したのは、羅小華をはじめ、方鳳岐、方鳳崗、方泳、汪海厓、汪南石、汪俊賢、汪懐泉、汪中山、項瑤などが知られている。嘉靖年代の墨の特徴は万暦年代とはちがい、墨銘がはっきりしたものが少ない。文様は単純であり、龍のなかでも角がない螭(ち)が好んで扱われる。簡素であり、古格があり、万暦時代の墨のように華麗ではない。

明末時代(万暦・天啓・崇禎、1573年〜1644年)

万暦年代に入り、文人趣味の横溢や浙江省を中心とする揚子江下流地帯の経済発展などを背景として、明代の製墨は飛躍する。嘉靖年代の羅小華、万暦年代の程君房などの墨匠は自らが資本家となり、資本の下に雇用した墨匠による生産体制を組織化し、墨を生産させた。また、徽州の製墨業は歙県、婺源および休寧の三ヶ所に発展した。歙県派は、羅小華から程君房、方干魯に引き継がれて発展する。休寧派は、汪中山、邵青邱を始祖とし、汪氏一族や呉氏などが活躍する。また、婺源には、葉氏の一派や朱氏などがいた。

清時代の製墨は、康熙・雍正年代は明時代の継承であり、万暦年代の最盛期が過ぎ、その当時の墨工が康熙年代に入っても活躍していた。具体的な墨匠としては、朱一涵、汪美中、呉叔大、呉鴻漸、程鳳池などが挙げられる。また、康熙末から雍正にかけて曹氏が台頭してくる。乾隆・嘉慶年代に入ると、乾隆帝の文化政策を追い風に、清時代の製墨の最盛期を迎え、汪近聖が活躍した。道光年間には、胡開文の胡氏が頭角をあらわしてくる。また、清の時代も文人による監造が盛んに行われ、詩人の袁随園、画家の金冬心などが造らせた墨が知られている。

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