厳選された美術品を世界遺産「石見銀山」がある
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和墨について

歴史

歴史

墨の伝来

墨の製法の日本伝来は、推古天皇の時代に、高麗の僧侶曇徴が来朝して伝えたということになっている。「漢委奴国王」(国宝・黒田家蔵)に記載のとおり、倭の百余国の中で北九州にあった奴国が金印(筑紫の志賀島から出土)を受けることなる漢王朝(光武帝)への朝貢や三国時代の魏志倭人伝にある卑弥呼、壱与などの朝貢には、国書があったと考えられる。そのため、墨の製造技術(製法)は別として墨自体は曇徴以前に伝来していたと考えられている。

奈良時代

仏教が国家宗教として興隆するとともに写経の全盛期を迎える。その時代背景と正倉院古文書の写経生への給付記録(筆、墨、紙)などから、天平時代には筆、墨および紙ともにかなりの量産が可能であったと考えられている。天平勝宝9年(758年、孝謙天皇の時代)に図書寮の造紙・造墨・造筆の長が少初位下(位階の最下位)に叙せられる。また昭和53年秋、平城京域の発掘において墨(船型10.9cm)が出土される。正倉院文書には東大寺写経所の写経生が1挺250文の墨を買った記録が残っている。

平安時代

延喜23年(804年)に最澄が渡唐した際、筑紫墨4挺を台州の太守陸惇に贈った。弘仁13年(822年)には、太政官の布告により全国の国衛に墨工を1人配置するように発令していることから、墨の需要の高まりがうかがえる。延喜5年(905年)に醍醐天皇の勅を受けて藤原時平らが延長5年(927年)に完成させた「延喜式」(50巻)において、「造墨式」が収録されている。そのなかで造墨長1人と造墨手4人が1組で長さ5寸(15cm)、広さ8分(2.4cm)の墨を年間400挺造ることを規定している。これは、1年間で宮中にて消費する墨量である。

場所 墨量
中央官庁用 400挺
太宰府(筑紫墨) 450挺
播磨国(針間墨) 350挺、掃墨2斛
丹波国(貝原墨) 200挺、掃墨1斛

そのほかに讃岐墨、丹波墨、伊予墨、阿波墨などがあった。また、平安時代末期(12世紀後半)には、紀州(現在の和歌山県)の藤代にて松煙墨が作られていた。

鎌倉時代

平安時代末期より大陸との国交が回復し、日宋貿易が起こる。渡宋した栄西禅師が携帰した唐墨を東大寺再建時に献上する。丹波の貝原墨の伝統が受け継がれるとともに新たに近江の武佐墨が出てくる。また、尊円法親王(1292年〜1356年)の「入木抄」には、京都北山の大平墨、紀州の藤代墨、淡路墨のことが記録されている。源頼朝公使用墨が北条政子献納物として鶴岡八幡宮に宝蔵される。

南北朝・室町時代

筆架、硯屏、筆、水入れなどといった書院飾りが興り、趣味生活が洗練されてくる。室町幕府の衰退とともに地方の官領、大名の国産奨励によって各地で製墨業が興った。薩摩墨(島津氏)、周防墨(大内氏)、筑前墨(少弐氏)などが有名である。奈良の墨業が創始し、室町時代の墨の需要をまかなった。逆に紀州の藤代墨が衰退し、延喜式時代の墨業も衰えたと考えられている。

安土桃山時代

永禄年間(1560年)に古梅園(初代:松井道珍)が開業する。

江戸時代

江戸時代になると、大坂には江戸油問屋が置かれ、菜種油の油株仲間が組織されるようになる。菜種油と油煙墨との関連から現在の奈良県北西部に位置する大和盆地にて、菜種の栽培が盛んに行われた。また、墨匠藤原広家が元和2年(1616年)に筑後掾に任ぜられ、以後墨屋が受領するようになる。寛永10年(1670年)になると奈良には、15軒の墨屋があったとされる。

寛文10年(1670年)頃のの墨屋(奈良)分布

場所 墨屋
橋本町 油煙商1軒
餅飯殿町 4軒
椿井町 3軒
南市町 1軒
高天町 2軒
下三条町 1軒
池の町 2軒
元林院町 1軒

奈良では、戦国時代という動乱をうまく乗り切って墨業が伝わり、墨業が発展していた。特に、奈良の墨業発展の功績の一つに古梅園がある。古梅園は室町時代末期に初代松井道珍によって開業された。以後、戦国時代の動乱の中、伝統を継承していった。四代道悦は和泉掾に任ぜられ、造墨司として奈良の墨業を統轄するに至った。五代元規は篤学の士であり、墨業を文献、古老に尋ねて集大成し、越後掾の官を受けた。この業績を後世に残したのが六代元泰であり、「青梅園墨談」、「古墨園墨譜」、および「大墨鴻壺集」などを刊行した。十一代元淳も篤美家であり、作り出した墨の新形式(形制)は現代にまで影響を及ぼしている。 貞亨年間(1684年〜1687年)になると、奈良や大坂の墨屋が京都に支店を設けたり、移居した。結果、京都には墨屋が18軒であったと記録に残っている。
徳川御三家の一つである紀州藩では、徳川宗直・宗将の頃になり廃絶していた藤代墨を復興させ、尾張藩においても墨業を奨励する。一方で、墨をつくる術を知らない諸藩は、発展していた奈良の墨業に発注せざるを得なかった。
江戸時代末期になると、京都の鳩居堂、江戸の高木寿穎、紀州の鈴木梅仙などの墨が出るようになる。一方で明治維新以降、鑑賞対象となる美術性をもった墨が少なくなる。

明治時代以降

江戸時代末期において18軒であった奈良の製墨業者は、明治に入ると11軒となった。明治から大正にかけて伊勢の白子においても墨業が行われ、大正から昭和にかけて奈良はもとより、東京、京都、伊勢などの墨が知られるようになる。

場所 墨業者
奈良 古梅園、玄林堂、呉竹精昇堂、大森香雲堂
伊勢 和田栄寿堂
京都 熊谷鳩居堂
東京 温恭堂、玉川堂、平安堂

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