商品名
<説明>
・表具 | 紙本 |
・軸先 | 塗 |
あららむ希 うしろも ゆ可し 花の色 しのぶ庵印
中島魚坊(なかしまぎょぼう、1725(享保10)~1793(寛政5))
石見国大田南村(現:島根県大田市大田町)衣料雑貨商中島芙三の長男として生まれ、直吾郎といった。号に芙川、潜魚庵、猿中窟、魚坊、橘皮山人、隣江庵、闘草子、しのぶ庵、徒然庵等多数有。父芙三は美濃派の俳匠田中吾筑坊と親交のあった俳人であったため、幼少のころから俳階に親しみ、和漢の学、俳階を同村の医師中島見龍に和歌を杵築の広瀬百羅に学び、書や画にも通じていた。魚坊はそうした感化もあって、俳人としてめきめき腕をあげ田中吾筑坊の門人になり、安田以哉坊、大島等飛坊、大島何戒坊、今井周坊、水野文蘇坊とともに同門六坊の一人と称された。
しかし一生の後半は苦難の連続だった。1760(宝暦10)大田の大火で被災し、全財産を失い、商売再建のメドも立たず、俳階で身を立てようと決心、同村城平に潜魚庵を結ぶ。このあたりは民家が少なく、猿がよく出て荒らし回ったため猿中窟ともいった。1768(明和5)愛児を失い、世の無常を感じ剃髪し、魚坊と改名した。魚坊の放浪生活が始まったのもこのころからで美濃の吾筑坊を訪ねたり、九州、京都等の俳匠と親しく交わったりした。この時代が魚坊の修行時代でもあった。徳を慕って集る門人も次第にふえた。
54才になった1779(安永8)春、門弟の一人出雲坂田村(現:出雲市斐川町)の豪農勝部本右衛門(見山)の招きで斐伊川の没岸隣江庵に移り住む。間もなく芭蕉の高弟各務支考の五十回忌の法要で再び美濃へ行き吾筑坊を訪れたが、師はすでに亡くなっていた。「来たかいもなうぼう然と秋寒し」と悲しんだ。帰郷して隣江庵に五年余り住んだが、斐伊川の改修で立ち退きを迫られ、「定まらぬすみかや鳩の巣のこころ」と一句を柱に書き残し、米子方面へ立ち去った。
魚坊の芸術は芭蕉精神の追求だった。旅人芭蕉と言われたように魚坊も旅を住み家とし、旅にあこがれたが、1785(天明5)60才の時、今市村(現:出雲市今市町)西楽寺近くにしのぶ庵を建て、死ぬまでの八年間ここに住んだ。老衰気味だったが俳句界ではトップ級の地位にあり、1792(寛政4)3月6日京都東山双林寺で芭蕉百回忌の法要と句会を営み主宰して全国に魚坊の名を高らしめた。この時発表された1万1千首の句は一大句集に編集されている。
1793(寛政5)11月24日しのぶ庵にて没。辞世の句「茶の花や人目も草も枯れたとき」
商品サイズ |
作品
縦(cm)59.5 、横(cm)16.5 表具 縦(cm)137.0 、横(cm)23.5 、横(軸先含む)(cm)29.0 |
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備考 | 販売中、送料別 |
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