商品名
<説明>
・表具 | 絹本 |
・軸先 | 骨 |
桐箱入り
副島蒼海(そえじまそうかい、1828~1905、享年78歳)
本名は種臣。通称二郎。蒼海は号で、他に一々学人がある。佐賀藩校弘道館教諭枝吉種彰(南濠)の二男として出生。兄経種(神陽)の説く「日本一君論」は、勤皇討幕の志士、政治家として蒼海の思想の根幹となった。32歳、副島利忠の養子となり副島姓を名乗る。41歳、新政府に徴せられて参与となる。また東北同盟諸藩の処分についても西郷隆盛らと寛典論を唱え、庄内藩士はこれを徳とし、その遺墨も数多く残されている。45歳、マリア・ルーズ号事件、46歳、清国全権大使として謁帝問題等の解決など、外交面での華々しい活躍ぶりを見せるが、征韓論に敗れ下野した後は、政界の主流に復帰することなく、失意のうちに49歳より足かけ3年間、清国漫遊の旅に出る。しかしこれは書人、漢詩人としての蒼海の一大転機となるものであった。
蒼海は学識豊かにして深遠、人格清廉潔白にして高邁、至誠無比にして実践力ある78年の生涯を生きた。「書は人なり」蒼海は書法に執われず、六朝書法の刺激を受けながらもその偉大さを書の上に遺憾なく発揮し、自由に率直に余すところなく表現した。蒼海の書は見る者の魂を揺さぶる破格の書であり、異次元の書である。
七言絶句
春来桃李各相妁孰谷高 |
桜楠襲霊自種此是三萬 |
載卿雲絢燗而皇朝 |
副島種臣□□ |
箱書
此為先府君蒼海先生遺墨影印 |
書成蓋在明治二十年左右 |
高原吉蔵君敬 |
神尊皇士也依介求一本 |
乃贈之頃日装潢成見示 |
余感激為書其因由返之蔵家 |
昭和五年六月 副島道正 印 |
副島道正(そえじまみちまさ、1871〜1948)
伯爵副島種臣の三男として東京に生まれる。イギリス・ケンブリッジ大学卒業。宮内省に入り、東宮侍従や式部官を務めた。実業家としては京城日報社長、日英水電・早川電力役員等を務めた。1918年(大正7年)7月から1925年(大正14年)7月まで貴族院議員。1940年(昭和15年)に東京オリンピックを開催招致すべく、1934年(昭和9年)5月のIOC総会(アテネ)でIOC委員に選出。1935年(昭和10年)に杉村陽太郎とともにローマでムッソリーニと会見し(インフルエンザと肺炎発症のため、予定より遅れて会談)、ライバル都市であったローマの立候補撤回を交渉し、翌1936年(昭和11年)の招致決定に功績を挙げた。だが、その2年後、戦時体制の強化による1938年(昭和13年)7月15日、1940年東京オリンピック・札幌オリンピックの大会中止の閣議決定の中心的存在ともなってしまった。1936年(昭和11年)8月から1947年(昭和22年)5月の貴族院廃止まで再び貴族院議員を務めた。
商品サイズ |
作品
縦(cm)140.3 、横(cm)52.0 表具 縦(cm)223.5 、横(cm)65.5 、横(軸先含む)(cm)71.7 |
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備考 | 販売中、送料別 |
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