和硯の歴史
年 | 時代 | 出来事(和硯) | |
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紀元後 | 710 〜 794 | 奈良時代 | 陶硯が主流 |
794 〜 1185 | 平安時代初期 | ||
中期 | 日本において硯石が採掘され始める | ||
末期 | 石硯が中国より渡来 | ||
1185 〜 1333 | 鎌倉時代 | 石硯が普及し、主流となる | |
和硯石開発が全国へと広がる | |||
1336 〜 1573 | 室町時代 | 硯箱の製作技術が発達 | |
唐物賞玩の風習が生まれ、中国の硯(唐硯)が珍重され始める | |||
1573 〜 1603 | 安土桃山時代 | 和硯の歴史として、特筆すべきことはない。 | |
1603 〜 1868 | 江戸時代 | 全国的に石硯の需要が広がる | |
藩の手厚い保護により各地の地場産業として発達 (なかには、独占事業とした藩もあった) |
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1868 〜 1912 | 明治時代 | 続々と中国の硯が渡来 | |
1912 〜 1926 | 大正時代 | 明治に引き続き、続々と中国の硯が渡来 | |
1926 〜 1989 | 昭和時代 | 戦後、経済成長と書道ブーム到来 端渓の新硯が中国より大量に流入 |
奈良時代
奈良時代の和硯は、正倉院の青斑石硯(宮内庁ホームページはこちら)に代表される陶硯(陶器でできた硯)が主流であった。この陶硯の使用は、他の地域には見られない日本独自の特徴であった。また、平城京跡より大量に出土される陶硯の出土分布などから、使用する硯の形状は身分によって異なっていたと考えられている。圏足硯(台の部分にスリット上に穴が空いている硯)は役人の中でも管理職クラス、蹄脚硯(台の部分に獣の足を模した大型の硯)は高位高官が使用していたと考えられている。また、形状は風字硯(猿面硯)が主流であった。日本で独自に硯が作られだした時代である。
平安時代
平安時代初期までは奈良時代と同じく陶硯が主流であった。中期になると、主に京都周辺で硯石が採掘され始める。さらに、末期には日宋貿易によって中国(宋朝)より石硯が渡来するとともに、その影響を受け日本において石硯が作られるようになる。また、形状は奈良時代に引き続き、風字硯(猿面硯)が主流であった。
鎌倉時代
鎌倉時代に入ると、石硯が主流となる。赤間硯が源頼朝によって鶴岡八幡宮に奉納される(奉納された赤間硯は、現存する最古の赤間硯といわれている)。
室町時代
唐物賞玩の風習が生まれ、特に東山時代には書院に文房具が飾られ、唐硯が珍重され始めた。それとともに、硯箱の技術が発達し、硯本体を箱に入れて使用・保管するようになる。
安土桃山時代
和硯の歴史として、特筆すべきことはない。
江戸時代
日本全国で硯の需要が高まり、和硯の全盛期を迎える。こんにち百種以上に及ぶ硯石の名称が記録されている。各藩では各地の硯石を保護したため、各地の地場産業として発達した。なかには藩の御留石(おとどめいし)として指定することで一般の採掘を禁止し、独占事業とする藩もあった。宮城県石巻市雄勝町では、雄勝硯の硯材である玄昌石が昔から産出されていたため、雄勝硯は伊達藩のお抱え産業であった。また、茶人や文人の愛玩用として陶硯が復活した。実用硯ではなく、愛玩用の硯であったため、その彫刻や文様は華やかで色彩が美しい風雅な硯であった。
明治時代
明治時代には、玄昌石を硯材とする雄勝硯が日本産硯(和硯)の約8割を占めるようになる。また、清朝の衰亡とともに、中国の名硯が続々と日本へ渡来した。日本の政治家・財閥・茶人・書画人・文筆家といった人を中心に名硯の真髄にふれることとなる。それと同時に、硯や文房具を専門に研究する人が現れ始めた。
大正時代
明治時代から引き続き、中国の名硯が日本へ渡来した。
明治時代
日本において高度経済成長とともに、日本に書道ブームが訪れる。赤間硯(昭和52年)、雄勝硯(昭和60年)が伝統工芸品指定を受ける。